元旦、マラソン予定。
大きな地図で見る
大阪から、神戸まで完走しました!!
12時半ぐらいから出て、朝の8時ぐらいまでかかりました。
もう最後の方は足が痛くて痛くて。
為せば成る。為さねば成らぬ、何事も。
成らぬは、人が為さぬなりけり。
2009年12月2日水曜日
我ガ研究ハ是戦争也。
先日、斉藤秀三郎によって作られた辞書である、「熟語本位英和中辞典」を購入した。
今は、絶版なのでオークションで手に入れた。
この著者である斉藤秀三郎は生涯を通じて「英会話文法」
「実用英文典」四巻をはじめ二百冊以上の著書を遺した。
そして、その内の一八八九年から九九年にかけて出版した
「実用英文典」四巻は日本の英語学界にこれほど浸透した
英文法の本はないと云われるほどの影響を与えた。皆さん
ご存じの「経験を表わす現在完了形」というのは、
当時英米で出された文法書にすら載っていなかったのに、
秀三郎が著書に記載したものだった。秀三郎は母国語を
操る英語学者より、数十年先んじていたと云われている。
このような非常に優れた英語学者なのだが、相当変わり者
であったらしい。以下彼の逸話を断片的ではあるが挙げていく。
秀三郎は、造船技師になるつもりで、東京工部大学校に
入学したが、英学に対する興味を押さえきれず、後に夏目漱石の師となる
ジェイムス・メイン・ディクソンに師事し、猛烈に勉学に励み、
学校の英書を全て読み尽くし、「大英百科事典」を二度も読んだ。
ところが、彼の反権威的な気性のため、学校当局としばしば
問題を起こし、放校となってしまう。その後、仙台に帰って教師として
赴任するも諍いを至る所で起こし、長続きしなかったようだ。
このように問題ばかり起こしていたのだが、たまたま東京から
知人の教師を訪ねて来ていた学習院教授に、その驚異的な英語の実力
を認められるに至り、東京の第一高等学校に教授として就任すること
になる。彼が二八才の時である。
それから、三年後、秀三郎は神田錦町に正則英語学校を創立し、
自ら校長となる。恐ろしく短気な秀三郎は、板書の時には左の手で
消しながら右手で書いていくという風に猛烈なスピードで授業を進め
たらしい。授業中に生徒が立つと、振り向いて一喝し、生徒が
「便所に行く」というと、「そこでおしなさい」といった調子だった。
また、時間に非常にうるさく、家の時計は全て正確でなければ
気が済まず、皇居の中で打たれた正午を報せる空砲に合わせて、
斉藤家の書生達が一斉に時間を合わせるほどであった。床屋で
何分で刈るようにと申しつけると、散髪が途中でも帰ってしま
うような徹底ぶりだったようだ。
秀三郎は日曜・祭日もなく、英語の研究に没頭し、
「俺の研究と云うのは是は戦争だよ君。
英語の研究と云うものに対して俺は戦争しているようなものだ。
俺の心理は戦争心理だ。」と弟子に語っていたらしい。
そのような、秀三郎も「俺の頭を休めるのは酒より外にない。
酒を飲ますのは女だから」といって、料亭に芸者を呼んで馬鹿騒ぎもした。
しかし、秀三郎の大酒は研究の妨げになるどころか、小唄が出れば、
右のポケットから白い紙片を取り出しては英訳をし、左のポケットに
収めたらしい。実際に彼が作った「和英大辞典」には
都々逸や喇叭節の英訳も入っている。
このように、秀三郎の研究というのは徹底していたらしい。
生活そのものが研究みたいなものだ。これを読んだとき、
私は「斉藤秀三郎みたいに勉学、研究に励まねば」という気持ち
になり、大いに励まされた。
俺の勉強も戦争なんだ。
歩みを止めるべからず。前進あるのみ!!
日本の浮沈は我が勉強にあり!!
2009年12月1日火曜日
真っ赤な林檎

今日、茂木健一郎さんのブログを見ていると、
ある林檎の樹の写真が貼られていた。
ふと、私の大好きな島崎藤村の詩が思い出された。
「初恋」 島崎藤村
まだ上げ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり
やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたえしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり
わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃を
君が情けに酌みしかな
林檎畠の樹の下に
おのづからなる細道は
誰が踏みそめしかたみとぞ
問ひたまふこそこいしけれ
普段は無味乾燥とした法律の文字の海を泳いでいるが、
時折、私の内の文学、美的な物に憧れる心を押しとどめておくことが出来なくなる。
この動画の歌は上の「初恋」の恋の甘美な感覚が全くないのだが、
ギャップがあまりに大きくおもしろかったので。
2009年11月29日日曜日
日本語が亡びるとき
本書において、筆者は十分には述べていなかったと思われるが、英語の帝国主義とでもいえるような時代と雖も、まず前提とすべきは、我々日本語を母語とする者達は、日本語を用いる時に、最も繊細で奥深い思考活動ができるということである。
それにも関わらず、筆者が返す返す言及するように、我々日本人は緻密な思考活動を可能にするような日本語教育について心を砕くことがあまりにも少なかった。それは、日本人がたった百年前の作品も読めなくなりつつあることに如実に顕れている。これは先人が労を惜しまず蓄積した英知に我々が真の意味で接触し、我が物とすることができなくなっていることを意味する。我々自身の手で、過去の遺産を棄ててきたにも等しいのである。
そこで、筆者が主張するのは、まず知的思考の前提となる日本語能力を全ての日本人の内に育成すること、そして、英語を母語とするような人達と対等に、議論が出来る程度の英語能力を一部の日本人の内に徹底的に養成することである。
私は筆者の意見に概ね賛成である。確かに反復が多く、海に出ては潮に何度も岸に押し返されるような気持ちになる時がない訳ではない。しかし、これは情報過多の時代に精読することが少なくなった我々を考慮して、何度も述べておられるのだと理解した。
また、個々の点で(私の場合歴史認識)、異論が無いわけでもない。しかし、それを補って余りあるほどに、英語の世紀の中で考えねばならぬことを、専門家ではないが、日本語の運用者たる我々に切に訴えてくるものである。
本題と関係なきところで、唾棄すべき書に非ず。
我、将にこれを必読の書とせん。
2009年11月24日火曜日
新非核四原則
「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」
この非核三原則には、
最も重要な原則が抜け落ち、大いなる瑕疵があると思わざるを得ない。
そして、その一つを付け加えて言うなら、
「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず、
然れども、打ち込まれぬことが最も肝要なり。」
この新たなる原則によると、
最後の四つ目の原則のためには初めの三つの原則は破棄することも可なり、ということである。
かの戦争の時に我々がもし原爆を持っていたなら、
広島、長崎に原爆は落とされなかったであろうと考えるからだ。
とはいっても、私自身核兵器を持つことを必ずしも賛成しているわけではない。
核兵器を持つという行動が生み出す作用が
他国も軒並み核兵器を持つという反作用を生み出す可能性が大きいからである。
しかし、マスコミが言うように、唯一の被爆国として非核三原則を固持すべきといった、
あまりに純真で、無垢で、お人好しで、短絡的な思考を抱き続けることは、
核兵器を再び落とされない日本を作り上げる上では、
好ましくないことだと言わざるをえない。
いつでも、核兵器を持ったり、作ったりできるのだという、意思をちらつかせることで、
相手国の我が国に対する、核兵器または武力の行使を牽制し、
我が国を守るための、外交上のカードを手にできると考えるからだ。
2009年11月23日月曜日
然れども、足下も見よ。
先頃、私の考えに大いなる変化があった。
私は、常に先々のことに思い巡らし、
自分の足下をみることがすくなかった。
このように、私は気づいて、大いなる発見を披瀝すべく、母に言った。
「私は、気づいた。人と異なることをするというのは、
人と異なることと同時に、人と同じことをしなければならない。非常に大変なことだ。」
すると、母は言った。
「そのようなことは当たり前だ。今更気づいたのか。」
そのようなことは皆気づいていることなのかと、
少し、動揺して近頃暮らしていたのだが、
今日、茂木健一郎さんのブログで、
まさに渇望していた、私を元気づけてくれる言葉をみつけた。
「若いときに大切なのは、
足下のことをきちんとやると同時に、
「遠くをみること」だと思う。
望遠鏡で、できるだけ遠くをみる。
同時に足下をちゃんとしていないと、
いろいろなことがおぼつかない。」
ああ、このような言葉に早く出会っていれば。
しかし、過去の私がこのような言葉に出会っていても、
その時には言わんとすることは理解できても、
真の意味で理解はできなかったかもしれない。
少年よ大志を抱け、然れども足下も見よ。
私は、常に先々のことに思い巡らし、
自分の足下をみることがすくなかった。
このように、私は気づいて、大いなる発見を披瀝すべく、母に言った。
「私は、気づいた。人と異なることをするというのは、
人と異なることと同時に、人と同じことをしなければならない。非常に大変なことだ。」
すると、母は言った。
「そのようなことは当たり前だ。今更気づいたのか。」
そのようなことは皆気づいていることなのかと、
少し、動揺して近頃暮らしていたのだが、
今日、茂木健一郎さんのブログで、
まさに渇望していた、私を元気づけてくれる言葉をみつけた。
「若いときに大切なのは、
足下のことをきちんとやると同時に、
「遠くをみること」だと思う。
望遠鏡で、できるだけ遠くをみる。
同時に足下をちゃんとしていないと、
いろいろなことがおぼつかない。」
ああ、このような言葉に早く出会っていれば。
しかし、過去の私がこのような言葉に出会っていても、
その時には言わんとすることは理解できても、
真の意味で理解はできなかったかもしれない。
少年よ大志を抱け、然れども足下も見よ。
2009年11月22日日曜日
未来
この世の難しきことに、人の評価というものがある。
ある人が自分の過去と決別すべく、
新たなる気概をもってことに当たっている時でさえも、
評価なるものがその人についてくる。
評価は勿論過去を評価する他なく、
過去に汚点があれば、いくらその人が変化しようとしても、
そのことは一顧だにされない。
人が変わろうとするとき、つまり過去と決別すべく、
新たなる未来を創出しようとしている時、
その人の過去はその人を引き摺りにかかる。
今までと変わらぬのではないかと。
しかし、未来に望む者はかかる虚言に惑わされてはならない。
未来を創造する者は自らの過去と戦わねばならない。
それが、未来を創るということであるからだ。
一歩、一歩前進するしかない。
弱音は吐くものじゃない。腹に飲み込むものだ。
そして、輝かしい未来を創出し得た時、
その人の評価はあらたに作り出された過去により変わるのだ。
ある人が自分の過去と決別すべく、
新たなる気概をもってことに当たっている時でさえも、
評価なるものがその人についてくる。
評価は勿論過去を評価する他なく、
過去に汚点があれば、いくらその人が変化しようとしても、
そのことは一顧だにされない。
人が変わろうとするとき、つまり過去と決別すべく、
新たなる未来を創出しようとしている時、
その人の過去はその人を引き摺りにかかる。
今までと変わらぬのではないかと。
しかし、未来に望む者はかかる虚言に惑わされてはならない。
未来を創造する者は自らの過去と戦わねばならない。
それが、未来を創るということであるからだ。
一歩、一歩前進するしかない。
弱音は吐くものじゃない。腹に飲み込むものだ。
そして、輝かしい未来を創出し得た時、
その人の評価はあらたに作り出された過去により変わるのだ。
2009年11月21日土曜日
ふと感じたこと
夕方、帰宅途中に乗った電車の車内で、ある女の横に座った。
細身の若い女で、黒い薄手のコートを着ていた。
車内はそこそこ混み、立っている人もあるというのに、
どこで買ったか知らぬが、紙袋を横の座席に置き、足を組んで座っていた。
髪や服装など身なりはきちんと整えてはいるが、
如何に身を綺麗に飾り立てようと、意味はあるまい。
いくら飾り立てようと、自らのさもしい心根は隠せまい。
と、そんなことを考えているうちに電車はホームに着いた。
電車を降り、階段を駆け下り、駅を出た。
ふと、空を見上げる。
青白く光った三日月があまりに美しい。
In the tranquil landscape, man beholds somewhat as beautiful as his own nature.
という一節が頭に浮かんだ。
細身の若い女で、黒い薄手のコートを着ていた。
車内はそこそこ混み、立っている人もあるというのに、
どこで買ったか知らぬが、紙袋を横の座席に置き、足を組んで座っていた。
髪や服装など身なりはきちんと整えてはいるが、
如何に身を綺麗に飾り立てようと、意味はあるまい。
いくら飾り立てようと、自らのさもしい心根は隠せまい。
と、そんなことを考えているうちに電車はホームに着いた。
電車を降り、階段を駆け下り、駅を出た。
ふと、空を見上げる。
青白く光った三日月があまりに美しい。
In the tranquil landscape, man beholds somewhat as beautiful as his own nature.
という一節が頭に浮かんだ。
2009年11月17日火曜日
Learning of English from Child
In the modern era of expanding globalism, willingly or not we should use
English in everyday life: making researches and speeches in a specialized field, working
for a company, operating business; as a result, there is a growing movement to improve
skills of it by learning from an early age.
But I'm not myself convinced that children should take time to study English,
reducing the time to spend for other subjects: Japanese, arithmetic, science, history.
And that's not that in any way I want to dismiss the value of command of English; it's
not that I haven't recognized the importance of English as a tool for playing an active
role internationally. What I mean is whether it is a wise choice to spend their precious
time on low-level and stereotyped English conversations, such as, 'How are you?' 'I'm fine,
and you?' I think it is the most important for us to have children study Japanese harder
and foster their intellectual spirit, attitude and curiosity toward learning, for we as
native Japanese, can take most profound and sensitive action of thought when we use
Japanese language.
English in everyday life: making researches and speeches in a specialized field, working
for a company, operating business; as a result, there is a growing movement to improve
skills of it by learning from an early age.
But I'm not myself convinced that children should take time to study English,
reducing the time to spend for other subjects: Japanese, arithmetic, science, history.
And that's not that in any way I want to dismiss the value of command of English; it's
not that I haven't recognized the importance of English as a tool for playing an active
role internationally. What I mean is whether it is a wise choice to spend their precious
time on low-level and stereotyped English conversations, such as, 'How are you?' 'I'm fine,
and you?' I think it is the most important for us to have children study Japanese harder
and foster their intellectual spirit, attitude and curiosity toward learning, for we as
native Japanese, can take most profound and sensitive action of thought when we use
Japanese language.
2009年7月5日日曜日
思想なき日本
明治、大正、そして昭和の第二次世界大戦前まで、
日本のエリートは知的好奇心に燃え、むさぼるように勉学に励んでいた。
そして、エリート集団が属した旧制高等学校では、文系理系を問わず、哲学が基礎教養とされ、
それを学んだ後に文系、理系の専門に進むことになっていた。
私はこれは至極当然のことであると思われる。
例えば私の学ぶ法律であるが、
法律を学んだところで、人間如何に生きるべきか、という根本の問題については何ら得るところはない。
法律はあくまである行為が違法か否かを教える行為規範であり、
もっと根本的な道徳的、倫理的な問題は法の範囲ではないからだ。
道徳観、倫理観の欠ける者が弁護士になればどうなるだろうか。
彼らは、法の抜け道を見つけ出し、法を悪用するに違いない。
これは法学の分野だけではない。経済の分野、物理の分野など全てにわたっていえることである。
知識だけあり、知恵のない者が重要な社会的地位につけば有害極まりない。
確かに、彼らとて普段は問題なく行動をするであろうが、
人間としての真価が問われるような問題に直面したとき、
公共の利益を無視して、自分たちの私利私欲に走るに違いない。
彼らには人間としての芯、哲学的思考が欠けるからである。
人間としての芯がない人間がいかに知識を学び、それを積み重ねようとしても
それは極めてもろい、砂上の楼閣である。
かくいう私も哲学的思考ができているわけではない。
まだまだ、人間としての芯が通っていないと自覚する者である。
しかし、まだ自らの無知を自覚している点で
そのような根本的問題に思いを馳せない人たちよりは
いくぶんかましであると思う。
私はまだまだ自分の人間としての芯が定まっていなく、
己が卑小なることを恥じる。
今、忙しいながらも岩波の哲学書を漁って読んでいる。
光陰矢のごとし。
早く急がねば。
日本のエリートは知的好奇心に燃え、むさぼるように勉学に励んでいた。
そして、エリート集団が属した旧制高等学校では、文系理系を問わず、哲学が基礎教養とされ、
それを学んだ後に文系、理系の専門に進むことになっていた。
私はこれは至極当然のことであると思われる。
例えば私の学ぶ法律であるが、
法律を学んだところで、人間如何に生きるべきか、という根本の問題については何ら得るところはない。
法律はあくまである行為が違法か否かを教える行為規範であり、
もっと根本的な道徳的、倫理的な問題は法の範囲ではないからだ。
道徳観、倫理観の欠ける者が弁護士になればどうなるだろうか。
彼らは、法の抜け道を見つけ出し、法を悪用するに違いない。
これは法学の分野だけではない。経済の分野、物理の分野など全てにわたっていえることである。
知識だけあり、知恵のない者が重要な社会的地位につけば有害極まりない。
確かに、彼らとて普段は問題なく行動をするであろうが、
人間としての真価が問われるような問題に直面したとき、
公共の利益を無視して、自分たちの私利私欲に走るに違いない。
彼らには人間としての芯、哲学的思考が欠けるからである。
人間としての芯がない人間がいかに知識を学び、それを積み重ねようとしても
それは極めてもろい、砂上の楼閣である。
かくいう私も哲学的思考ができているわけではない。
まだまだ、人間としての芯が通っていないと自覚する者である。
しかし、まだ自らの無知を自覚している点で
そのような根本的問題に思いを馳せない人たちよりは
いくぶんかましであると思う。
私はまだまだ自分の人間としての芯が定まっていなく、
己が卑小なることを恥じる。
今、忙しいながらも岩波の哲学書を漁って読んでいる。
光陰矢のごとし。
早く急がねば。
2009年7月4日土曜日
ペンは剣より強し
技術と人間との結びつきが強くなる中、
明治以来の文系、理系という分け方は現代においては
甚だ非合理なものとなりつつあるが、
説明の便宜上、あえてその言葉で論じたい。
2008年四人の日本人がノーベル賞を受賞したことは記憶に新しい。
理系の分野では日本の経済力からしてまだまだ世界的に活躍している人は
少ないとは思うが、多くの日本人が言語の壁を乗り越え活躍している。
しかし、翻って日本の文系の活躍はどうであろうか。
従来の世界に対する見方を根本的に変えるといった人物は
文系分野においてはいないのではないだろうか。
海外の思想家を我々はよく耳にするが、
海外において有名な日本の思想家をほとんど耳にしない点からも
このことは明らかなことではないかと考える。
正義が未だ行われず、不平等なこの世界を変えるべく
日本人としての立場から
旧来の考えを払拭しようとするような気概をもった者はいないのか。
経済ばかり目立ち、理念がなく国際舞台において顔がみえないといわれるままで良いのか。
あげくの果てには日本に期待されるのは金の拠出だけという有様である。
我々、文系人は深く深く反省しなければならない。
このまま思想を欧米に預けたままで、我々はそれに追従するだけでいいのか!
グローバリゼーションの進展、経済危機で思想の揺らぎが生じている現在
まさに、我々がうってでるときではないか。
我々から積極的に情報発信していかなければならない。
自戒の念を込めて書いたのでついつい熱くなってしまった。
近日、英語でもブログを立ち上げるつもりである。
明治以来の文系、理系という分け方は現代においては
甚だ非合理なものとなりつつあるが、
説明の便宜上、あえてその言葉で論じたい。
2008年四人の日本人がノーベル賞を受賞したことは記憶に新しい。
理系の分野では日本の経済力からしてまだまだ世界的に活躍している人は
少ないとは思うが、多くの日本人が言語の壁を乗り越え活躍している。
しかし、翻って日本の文系の活躍はどうであろうか。
従来の世界に対する見方を根本的に変えるといった人物は
文系分野においてはいないのではないだろうか。
海外の思想家を我々はよく耳にするが、
海外において有名な日本の思想家をほとんど耳にしない点からも
このことは明らかなことではないかと考える。
正義が未だ行われず、不平等なこの世界を変えるべく
日本人としての立場から
旧来の考えを払拭しようとするような気概をもった者はいないのか。
経済ばかり目立ち、理念がなく国際舞台において顔がみえないといわれるままで良いのか。
あげくの果てには日本に期待されるのは金の拠出だけという有様である。
我々、文系人は深く深く反省しなければならない。
このまま思想を欧米に預けたままで、我々はそれに追従するだけでいいのか!
グローバリゼーションの進展、経済危機で思想の揺らぎが生じている現在
まさに、我々がうってでるときではないか。
我々から積極的に情報発信していかなければならない。
自戒の念を込めて書いたのでついつい熱くなってしまった。
近日、英語でもブログを立ち上げるつもりである。
ブログの方針の確認
ついつい、忙しさにかまけ、ブログの更新を怠ってしまった。
更新しない間にも日々、様々なことを感じ、考えてきたが、
まだきちんと整理できていないものを公開していいものかと、ついつい筆をおいてしまった。
しかし、これでは本来の目的である日々の思考の変遷をみる
という目的が達成できない。
そういうことを考えている内に、
たとえ今書くことが後からみればまだまだ不足していても
良いではないかと考えた。
ブログを更新しながらも自己修養を怠らなければ、
まさに自己の成長という思考の変遷を後にみれるではないかと思ったのだ。
だから、これからは未だ確固とした思想にまでいたっていないことでも、
思いつけば書いていくという方針を採りたい。
更新しない間にも日々、様々なことを感じ、考えてきたが、
まだきちんと整理できていないものを公開していいものかと、ついつい筆をおいてしまった。
しかし、これでは本来の目的である日々の思考の変遷をみる
という目的が達成できない。
そういうことを考えている内に、
たとえ今書くことが後からみればまだまだ不足していても
良いではないかと考えた。
ブログを更新しながらも自己修養を怠らなければ、
まさに自己の成長という思考の変遷を後にみれるではないかと思ったのだ。
だから、これからは未だ確固とした思想にまでいたっていないことでも、
思いつけば書いていくという方針を採りたい。
2009年6月12日金曜日
私の死生観
人は生まれた瞬間から死にむかっている。
そして、誰しもその死が自分に訪れることをおそれるものである。
というわけで、今日は私の死生観について述べてみたい。
私は輪廻して再び生を受けるなど、
審判の日に永遠の命を受けるなど、
全く信じないし、信じようとも思わない。
宗教によって与えられた死生観を受け入れることは、
死と直面することをおそれるあまり、
死から目をそらしているように感じられるからだ。
まだ、次があるというそのような死生観では
現在の恐怖から逃れるにすぎず、
現在の生を輝かせるに至らない。
麻酔みたいなものだ。
誰が死のうと、社会はまるで何事もなかったかのように平然と動いていく。
死を恐れるのは、自分という存在が無に帰すると考えるからだと思う。
人間だれしも自分の生に意味がなかったのではないかと思うことに恐怖するのだ。
しかし、自分という存在が消えると何も残らないのだろうか。
私は否と答えたい。
私は祖母を中2の夏に交通事故によって亡くした。
だが、中学受験を終えた後、ディズニーランドへ連れて行ってくれたこと、
宮沢賢治が好きだと言えば、宮沢賢治展に連れて行ってくれて全集を買ってくれたこと
よく、まだあたたかい舎利(しゃり)で寿司をつくってくれたことなど、
ふと思い出すことがある。
そう、彼女は私の心の中で生きているのである。
家族を大事にすること、そして自分の周りにいる人たちも大事にすること
そうすることで、彼ら、彼女らの中に私が息づく。
また、皆の幸せのために奮闘し、社会的な功績を残す人
その人の名は永遠に記録され、まさに、永遠の命を得るのである。
世の中を自分が仮に存在しなかった世界より、少しでもよくすること。
そうすれば、私がこの地球に存在したという意味があるのではないだろうか。
そして、できれば、この日本という国に生まれたからには、
日本国、そしてその構成員たる日本人のため、自分の身を尽くし
後生に名を受け継がれるような人物になりたいと思う。
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂」
吉田松陰・留魂録 (講談社学術文庫)抜粋
そして、誰しもその死が自分に訪れることをおそれるものである。
というわけで、今日は私の死生観について述べてみたい。
私は輪廻して再び生を受けるなど、
審判の日に永遠の命を受けるなど、
全く信じないし、信じようとも思わない。
宗教によって与えられた死生観を受け入れることは、
死と直面することをおそれるあまり、
死から目をそらしているように感じられるからだ。
まだ、次があるというそのような死生観では
現在の恐怖から逃れるにすぎず、
現在の生を輝かせるに至らない。
麻酔みたいなものだ。
誰が死のうと、社会はまるで何事もなかったかのように平然と動いていく。
死を恐れるのは、自分という存在が無に帰すると考えるからだと思う。
人間だれしも自分の生に意味がなかったのではないかと思うことに恐怖するのだ。
しかし、自分という存在が消えると何も残らないのだろうか。
私は否と答えたい。
私は祖母を中2の夏に交通事故によって亡くした。
だが、中学受験を終えた後、ディズニーランドへ連れて行ってくれたこと、
宮沢賢治が好きだと言えば、宮沢賢治展に連れて行ってくれて全集を買ってくれたこと
よく、まだあたたかい舎利(しゃり)で寿司をつくってくれたことなど、
ふと思い出すことがある。
そう、彼女は私の心の中で生きているのである。
家族を大事にすること、そして自分の周りにいる人たちも大事にすること
そうすることで、彼ら、彼女らの中に私が息づく。
また、皆の幸せのために奮闘し、社会的な功績を残す人
その人の名は永遠に記録され、まさに、永遠の命を得るのである。
世の中を自分が仮に存在しなかった世界より、少しでもよくすること。
そうすれば、私がこの地球に存在したという意味があるのではないだろうか。
そして、できれば、この日本という国に生まれたからには、
日本国、そしてその構成員たる日本人のため、自分の身を尽くし
後生に名を受け継がれるような人物になりたいと思う。
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂」
吉田松陰・留魂録 (講談社学術文庫)抜粋

2009年6月8日月曜日
違った風景
昨日ははなんだか肩がこっていたので、
いつもなら夜の10時頃から走り出すところ、
6時くらいに家を出た。
いつとも、同じジョギングコースだったのだが、
普段とのあまりにの印象の差に驚いてしまった。
いつもと違う町の光景
道ばたで立ち止まり話す人々
町や人の様子が肌で感じられるのである。
いつも走るときは、時間や速さをI phone で計測しているのだが、
違った印象の風景を写真に撮りたいと思ったので、
図るのを止め、写真を撮った。

住吉大社

住吉大社、神田
同じ道を進むのでも、時間や進む方向が変われば、
印象はガラリと変わる。
日常生活でも同様に、
普段あまりに見慣れているせいで、
見過ごしてしまっていることも多いのではないだろうか。
時には同じことをするのでも、違った方法でしてみる。
いつもとは違った考え方をしてみるのも重要ではないだろうか。
そうすることで、いつもの自分の日常を客観視できるし、
新たな発見をすることもできるかもしれない。
いつもなら夜の10時頃から走り出すところ、
6時くらいに家を出た。
いつとも、同じジョギングコースだったのだが、
普段とのあまりにの印象の差に驚いてしまった。
いつもと違う町の光景
道ばたで立ち止まり話す人々
町や人の様子が肌で感じられるのである。
いつも走るときは、時間や速さをI phone で計測しているのだが、
違った印象の風景を写真に撮りたいと思ったので、
図るのを止め、写真を撮った。

住吉大社

住吉大社、神田
同じ道を進むのでも、時間や進む方向が変われば、
印象はガラリと変わる。
日常生活でも同様に、
普段あまりに見慣れているせいで、
見過ごしてしまっていることも多いのではないだろうか。
時には同じことをするのでも、違った方法でしてみる。
いつもとは違った考え方をしてみるのも重要ではないだろうか。
そうすることで、いつもの自分の日常を客観視できるし、
新たな発見をすることもできるかもしれない。
2009年6月6日土曜日
情熱の保ち方(続1)
以前、情熱の保ち方には内面的方法と、外面的方法があるといった。
そして、その内面的方法では、確固たる目標を持つことの重要性について、
述べたのであるが、もう一つ、確固たる目標をいかに持続させるかについて、
考えてみたい。
どんなに、強い意志を持ったとしても、その次の日いや、その目標を立てた日でさえ、
目標と反するようなことをしてしまうのが、我々の常である。
本当に続けることの難しさを実感せざるをえない。
それで、考えた。なぜ、続けることが難しいのか。
私は、目標を立てた時の、精神の高揚、新鮮さ、達成の重要度を
行動のつらさや、時間の経過とともに、忘れてしまうからではないかと思う。
そう、子供の時、遠足に行く前日におやつに何をもって行くか、
などを考える時が一番楽しく、皆で歩いているときは、しんどくて早く終われと感じたように。
それでは、どのようにしたら、目標を立てた時の精神の高揚、新鮮さ、達成の重要度を
自分の中に刻みつけ、持続させることができるのか。
それは、日々自分の目標を確認することである。
そして、再びそれらを自分の中に取り戻すことである。
「私はなぜこの夢を実現したいのか、夢を実現するとどんなに楽しいか」
について思いめぐらすのである。
私の場合、まるで信仰するかのように、
聖徳太子像の前で手をあわせ、日々自分の夢を確認するようにしている。
そして、その内面的方法では、確固たる目標を持つことの重要性について、
述べたのであるが、もう一つ、確固たる目標をいかに持続させるかについて、
考えてみたい。
どんなに、強い意志を持ったとしても、その次の日いや、その目標を立てた日でさえ、
目標と反するようなことをしてしまうのが、我々の常である。
本当に続けることの難しさを実感せざるをえない。
それで、考えた。なぜ、続けることが難しいのか。
私は、目標を立てた時の、精神の高揚、新鮮さ、達成の重要度を
行動のつらさや、時間の経過とともに、忘れてしまうからではないかと思う。
そう、子供の時、遠足に行く前日におやつに何をもって行くか、
などを考える時が一番楽しく、皆で歩いているときは、しんどくて早く終われと感じたように。
それでは、どのようにしたら、目標を立てた時の精神の高揚、新鮮さ、達成の重要度を
自分の中に刻みつけ、持続させることができるのか。
それは、日々自分の目標を確認することである。
そして、再びそれらを自分の中に取り戻すことである。
「私はなぜこの夢を実現したいのか、夢を実現するとどんなに楽しいか」
について思いめぐらすのである。
私の場合、まるで信仰するかのように、
聖徳太子像の前で手をあわせ、日々自分の夢を確認するようにしている。
2009年6月4日木曜日
「だって、にんげんだもの」の考察
一生勉強、一生青春。
うん、これは納得できるまさしくその通り。
そう、あいだみつおのことばである。
くるしいことだってあるさ 人間だもの
まようときだってあるさ 凡夫だもの
あやまちだってあるよ おれだもの
しかし、この言葉はものすごく、納得ができない。
何か、こう自己の弱さを「人間だもの」という言葉で、
全肯定しているかのようであるからだ。
たしかに、日々生活を送っているときに、
何もかもが嫌になるようなときがないわけではない。
しかし、「だってにんげんだもの」は弱さを肯定してしまう点で、
その言葉を用いる人によっては、極めて有害に働くおそれがある。
いいよ、失敗したって、人間だもの
いいよ、愚痴をこぼしたって、人間だもの
これでは、自己成長がなくなってしまうのではないだろうか。
そんな言葉よりも、(スマイルズの世界的名著 自助論 知的生きかた文庫
から抜粋)
「不可能という言葉は愚者の辞書に見ゆるのに」
「強者と弱者の違い、偉人ととるに足りない人間との違いは、
その人間が旺盛な活力と不屈の決意をもっているかどうかに、かかっている。
ひとたび目標が定まったら、後は勝利か死のいずれしかない。
そう断じきる決意が大切なのだ。旺盛な活力と不屈の決意さえあれば、
この世に不可能なことは一つもない。逆に、それを備えていなければ、
どんなに才能や境遇やチャンスに恵まれていようとも、
二本足で歩く動物の域を出ず、真の人間にはなれないだろう」
という言葉のほうが、高見を目指す活力を与えてくれると感じる。
とはいっても、「だって、人間だもの」という言葉が必要だなと思う人がないわけでない。
それは、あまりにも責任感、義務感が強い人達である。
だけど、そんな人たちは「だって、人間だもの」の言葉に見向きもしないかもしれない。
何か、矛盾する結論となってしまった。
うん、これは納得できるまさしくその通り。
そう、あいだみつおのことばである。
くるしいことだってあるさ 人間だもの
まようときだってあるさ 凡夫だもの
あやまちだってあるよ おれだもの
しかし、この言葉はものすごく、納得ができない。
何か、こう自己の弱さを「人間だもの」という言葉で、
全肯定しているかのようであるからだ。
たしかに、日々生活を送っているときに、
何もかもが嫌になるようなときがないわけではない。
しかし、「だってにんげんだもの」は弱さを肯定してしまう点で、
その言葉を用いる人によっては、極めて有害に働くおそれがある。
いいよ、失敗したって、人間だもの
いいよ、愚痴をこぼしたって、人間だもの
これでは、自己成長がなくなってしまうのではないだろうか。
そんな言葉よりも、(スマイルズの世界的名著 自助論 知的生きかた文庫
「不可能という言葉は愚者の辞書に見ゆるのに」
「強者と弱者の違い、偉人ととるに足りない人間との違いは、
その人間が旺盛な活力と不屈の決意をもっているかどうかに、かかっている。
ひとたび目標が定まったら、後は勝利か死のいずれしかない。
そう断じきる決意が大切なのだ。旺盛な活力と不屈の決意さえあれば、
この世に不可能なことは一つもない。逆に、それを備えていなければ、
どんなに才能や境遇やチャンスに恵まれていようとも、
二本足で歩く動物の域を出ず、真の人間にはなれないだろう」
という言葉のほうが、高見を目指す活力を与えてくれると感じる。
とはいっても、「だって、人間だもの」という言葉が必要だなと思う人がないわけでない。
それは、あまりにも責任感、義務感が強い人達である。
だけど、そんな人たちは「だって、人間だもの」の言葉に見向きもしないかもしれない。
何か、矛盾する結論となってしまった。
2009年6月3日水曜日
時間は消滅せり、かくしてその罪は我らにあり。
時間は本当にあっという間にすぎていく。
1年は振り返ってみれば、短く感じる。
だけど、それを100回も繰り返さないうちに人は亡くなる。
東京で過ごした大学時代、4年もあったが矢の如く過ぎ去った。
だけど、その4年を25回も繰り返さないうちに人は亡くなる。
少年易老学難成 少年老い易く学成り難し
一寸光陰不可軽 一寸の光陰軽んずべからず
未覚池塘春草夢 未だ覚めず池塘春草(ちとうしゅんそう)の夢
階前梧葉已秋声 階前の梧葉(ごよう)已(すで)に秋声
とはよく言ったものだ。
だが、この短い人生を嘆いても仕方がない。
嘆こうが、嘆くまいが、今という時は皆に平等に与えられている。
そして、その今を活かすも殺すも自分次第である。
短いから何もできなくてもいいのではない。
短いからこそ今を真剣に生き、太く生き、
自分が生きたという証拠を刻みつけるのである。
時間は消滅せり、かくしてその罪は我らにあり。

1年は振り返ってみれば、短く感じる。
だけど、それを100回も繰り返さないうちに人は亡くなる。
東京で過ごした大学時代、4年もあったが矢の如く過ぎ去った。
だけど、その4年を25回も繰り返さないうちに人は亡くなる。
少年易老学難成 少年老い易く学成り難し
一寸光陰不可軽 一寸の光陰軽んずべからず
未覚池塘春草夢 未だ覚めず池塘春草(ちとうしゅんそう)の夢
階前梧葉已秋声 階前の梧葉(ごよう)已(すで)に秋声
とはよく言ったものだ。
だが、この短い人生を嘆いても仕方がない。
嘆こうが、嘆くまいが、今という時は皆に平等に与えられている。
そして、その今を活かすも殺すも自分次第である。
短いから何もできなくてもいいのではない。
短いからこそ今を真剣に生き、太く生き、
自分が生きたという証拠を刻みつけるのである。
時間は消滅せり、かくしてその罪は我らにあり。

2009年6月2日火曜日
原丈二さんの「新しい資本主義」
私は本をよく買って読んでいるが、久しぶりに心躍る本に出会えた。
原丈二さんの新しい資本主義 (PHP新書)
である。
彼はアメリカのシリコンバレーにおいて、ベンチャーキャピタリストとして、
活躍しており、アメリカ型資本主義、つまり金融資本主義から脱却して、
新たな公益のための資本主義を構築することを訴えている。
そして、その資本主義を構築するにあたって、日本が主導権を握り、
他の国々を牽連していくことができる国として最もふさわしく、
まさにそうすべきであると主張している。
ベンチャーキャピタリストでありながら、金儲けが全てではない。
会社は株主のものであるといった、おごった考え方を捨て去り、
会社を社会に貢献するためのものとして新たに捉え直すことの、
重要性について述べられていることに、感激を覚えた。
しかし、会社は社会に貢献するためのものとする思想は何も新しいものではない。
我々日本人が経営の神様として、尊敬している松下幸之助、本田宗一郎
なども、言っていたことである。
金を稼ぐのが会社の目的ではない。
社会に貢献すれば自然と金はついてくるものである。
我々、日本人は自分の足下を再び見つめ直し、
再び、見失いつつあった本当に大切な価値観を世界に広めるべきではないか。
原丈二さんの新しい資本主義 (PHP新書)
彼はアメリカのシリコンバレーにおいて、ベンチャーキャピタリストとして、
活躍しており、アメリカ型資本主義、つまり金融資本主義から脱却して、
新たな公益のための資本主義を構築することを訴えている。
そして、その資本主義を構築するにあたって、日本が主導権を握り、
他の国々を牽連していくことができる国として最もふさわしく、
まさにそうすべきであると主張している。
ベンチャーキャピタリストでありながら、金儲けが全てではない。
会社は株主のものであるといった、おごった考え方を捨て去り、
会社を社会に貢献するためのものとして新たに捉え直すことの、
重要性について述べられていることに、感激を覚えた。
しかし、会社は社会に貢献するためのものとする思想は何も新しいものではない。
我々日本人が経営の神様として、尊敬している松下幸之助、本田宗一郎
なども、言っていたことである。
金を稼ぐのが会社の目的ではない。
社会に貢献すれば自然と金はついてくるものである。
我々、日本人は自分の足下を再び見つめ直し、
再び、見失いつつあった本当に大切な価値観を世界に広めるべきではないか。
2009年5月31日日曜日
私は味音痴か?

私は、海外旅行に行けば、徹底的に現地の物を食べる。
日本料理店なんか一切行かない。そして、よく言われる。「お前味音痴だから
何でも食えるんじゃないのか」と。
だが、本当にそうか。
一応自分でも何が上手くて何がまずいか分かっていると思う。
まずい物食ったて、死にはしないだろう。人が食える物は人は食える。
「何を食べるかではなく、どのように食べるかだ」と茂木健一さんが、言っていた。
まさに、我が意を得たりである。
そう、どんなにおいしくたって、雰囲気が悪かったり、嫌いな人とだったりすると、
おいしさは半減するものである。
心が踊り、自分の好きな人とだったら、そんなにおいしくなくたって、上手く感じるものである。
わざわざ、まずい物を食べる必要はないと思うが、今食べている食事を
楽しくするかどうかはあなた次第である。
素晴らしい一日を生きるぞ
2009年5月29日金曜日
新しい資本主義
原油価格が1バレル60ドル前後まで再び上昇しているみたいだ。実体経済を離れ架空の金を操り儲けようとする、ファンドの連中など閉め出してしまうべきだ。彼らは短期に利益をあげることばかり、考え人々の幸せにとって、本当は何が必要かなぞは考えてはいないのだ。
そんな、金融工学のみ信じた連中に任せた結果、今度のサブプライム問題が起こったのだ。金融は本来実体の経済を助け、雇用を創出し、人々を豊かにするためのものであるはずだ。それなのに、我々の生活を豊かにするどころか今度の世界大恐慌をおこしたのだ。株というのは、皆が金を一所に集め、それの取り合いをする一種のゲームである。多くの人が損した分だけ、儲けた連中がいるのだろう。経済産業省がもっと、日本の投資家を増やそうなど、たわけたことをぬかしていたが、日本の金をそうした連中に捧げにいくようなものだ。正気の沙汰とは思えない。
一時、堀江や村上などがはやったが、自分の金もうけしか考えていない連中に我々の未来を任せるべきではない。我々日本人はああした連中とは手を切って、皆が幸せになれる未来を目指すべきである。

そんな、金融工学のみ信じた連中に任せた結果、今度のサブプライム問題が起こったのだ。金融は本来実体の経済を助け、雇用を創出し、人々を豊かにするためのものであるはずだ。それなのに、我々の生活を豊かにするどころか今度の世界大恐慌をおこしたのだ。株というのは、皆が金を一所に集め、それの取り合いをする一種のゲームである。多くの人が損した分だけ、儲けた連中がいるのだろう。経済産業省がもっと、日本の投資家を増やそうなど、たわけたことをぬかしていたが、日本の金をそうした連中に捧げにいくようなものだ。正気の沙汰とは思えない。
一時、堀江や村上などがはやったが、自分の金もうけしか考えていない連中に我々の未来を任せるべきではない。我々日本人はああした連中とは手を切って、皆が幸せになれる未来を目指すべきである。
2009年5月28日木曜日
もっと、気軽に
もっと、気軽に思うがままにブログを書いてみようと思う。
何か、書くとなったら格式張って難しいことばかり書こうとしてしまうが、そんな難しいことばかり人は考えているわけではない。もっと、自由に日々のふと考えたことなど気軽に書いて、思考の変遷をみるのもおもしろいだろうと思ったからだ。
チェブラーシュカの動画を貼っておく。
何か、書くとなったら格式張って難しいことばかり書こうとしてしまうが、そんな難しいことばかり人は考えているわけではない。もっと、自由に日々のふと考えたことなど気軽に書いて、思考の変遷をみるのもおもしろいだろうと思ったからだ。
さっそく、今日は難波パークスで母のプレゼントを買った。チェブラーシュカの人形だ。
これは僕が母に動画を見せて、すごく母が気に入ったキャラクターだ。ロシアで生まれたものだが、これは日本のキャラクターではないかと思うほど違和感なく受け入れることができた。
かわいいと思う仕草、声、シュチュエーションなど文化は違えど、ある程度共通するのだなあと感心した。
これは僕が母に動画を見せて、すごく母が気に入ったキャラクターだ。ロシアで生まれたものだが、これは日本のキャラクターではないかと思うほど違和感なく受け入れることができた。チェブラーシュカの動画を貼っておく。
2009年5月17日日曜日
情熱の保ち方
充実した日々を送ろうと努力していても、時には自分の夢を見失い、ダラダラと一日を過ごしてしまうことがないわけではない。本当に自分の目標に自分自身を向かわせ続けることは難しいと感じずにはいられない。
とはいっても、ある日そのような弱さは自分のものだけではないと気づかされることがあった。しかもそれは経営の天才といわれた松下幸之助の言葉によってである。日本の国民の生活水準を上げるべく、努力を続け、松下を一大企業にした彼でもってさえ、継続する難しさを述べたのである。私は情熱の塊とも思える彼がそのような心情を述べたことに驚きと共に、このようなもろさは私だけの問題ではないと安堵を覚えた。かくいう私も、大学受験の浪人生の頃、志望の大学に入りたいとの夢はあるものの、ある種の身体的疲労感から、鬱々とした気持ちで勉強机に向かい、非効率的な日々を過ごしていたことがあった。本当にあの時の気持ちを思い出すと今でもぞっとする時がある。
確かに、そのような内心的弱さを人間であるなら誰しもあるだろう。だが、私たちはそのような弱さを抱えながらも日々鋭意努力しなければならない。情熱の灯火が消えかけても、それを再燃させる力、またその灯火を絶やさないようにする力はどのように身を付ければよいであろうか。
私は情熱の燃やし方には内面的方法と外面的方法があると考える。内面的方法とは自分の内部からやる気をおこすことである。例えば、自分の目標を毎日確認し、決意を新たにすることなどはこれにあたる。一方、外面的方法とは本や人との出会いなどにより、自分の外部からやる気をおこすことである。以下、それぞれの方法によりいかに情熱の炎を燃やし続けるかについて述べたい。
まず、内面的方法であるが、この内面的方法はなかなか意識がされなく見過ごす点である。内面的方法とは既述のように自分の内部からやる気をおこすことであるが、それには確固たる目標が定まっている必要がある。目標が漠然としていては、どの程度の期間、どれくらいの努力が要するかがはっきりとしなく、やる気が起きないからである。例えば、同じ仕事をするにも好きなだけ時間をかけていいといわれるのと一日で仕上げるように言われるのでは自ずから熱の入れように差がでることからもわかるであろう。
確固たる目標を掲げるのは大前提として、次に難しいのはその確固たる目標をいかに見失わず、自分の中で活かすかである。
とはいっても、ある日そのような弱さは自分のものだけではないと気づかされることがあった。しかもそれは経営の天才といわれた松下幸之助の言葉によってである。日本の国民の生活水準を上げるべく、努力を続け、松下を一大企業にした彼でもってさえ、継続する難しさを述べたのである。私は情熱の塊とも思える彼がそのような心情を述べたことに驚きと共に、このようなもろさは私だけの問題ではないと安堵を覚えた。かくいう私も、大学受験の浪人生の頃、志望の大学に入りたいとの夢はあるものの、ある種の身体的疲労感から、鬱々とした気持ちで勉強机に向かい、非効率的な日々を過ごしていたことがあった。本当にあの時の気持ちを思い出すと今でもぞっとする時がある。
確かに、そのような内心的弱さを人間であるなら誰しもあるだろう。だが、私たちはそのような弱さを抱えながらも日々鋭意努力しなければならない。情熱の灯火が消えかけても、それを再燃させる力、またその灯火を絶やさないようにする力はどのように身を付ければよいであろうか。
私は情熱の燃やし方には内面的方法と外面的方法があると考える。内面的方法とは自分の内部からやる気をおこすことである。例えば、自分の目標を毎日確認し、決意を新たにすることなどはこれにあたる。一方、外面的方法とは本や人との出会いなどにより、自分の外部からやる気をおこすことである。以下、それぞれの方法によりいかに情熱の炎を燃やし続けるかについて述べたい。
まず、内面的方法であるが、この内面的方法はなかなか意識がされなく見過ごす点である。内面的方法とは既述のように自分の内部からやる気をおこすことであるが、それには確固たる目標が定まっている必要がある。目標が漠然としていては、どの程度の期間、どれくらいの努力が要するかがはっきりとしなく、やる気が起きないからである。例えば、同じ仕事をするにも好きなだけ時間をかけていいといわれるのと一日で仕上げるように言われるのでは自ずから熱の入れように差がでることからもわかるであろう。
確固たる目標を掲げるのは大前提として、次に難しいのはその確固たる目標をいかに見失わず、自分の中で活かすかである。
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