2009年7月5日日曜日

思想なき日本

明治、大正、そして昭和の第二次世界大戦前まで、
日本のエリートは知的好奇心に燃え、むさぼるように勉学に励んでいた。
そして、エリート集団が属した旧制高等学校では、文系理系を問わず、哲学が基礎教養とされ、
それを学んだ後に文系、理系の専門に進むことになっていた。

私はこれは至極当然のことであると思われる。
例えば私の学ぶ法律であるが、
法律を学んだところで、人間如何に生きるべきか、という根本の問題については何ら得るところはない。
法律はあくまである行為が違法か否かを教える行為規範であり、
もっと根本的な道徳的、倫理的な問題は法の範囲ではないからだ。

道徳観、倫理観の欠ける者が弁護士になればどうなるだろうか。
彼らは、法の抜け道を見つけ出し、法を悪用するに違いない。
これは法学の分野だけではない。経済の分野、物理の分野など全てにわたっていえることである。
知識だけあり、知恵のない者が重要な社会的地位につけば有害極まりない。
確かに、彼らとて普段は問題なく行動をするであろうが、
人間としての真価が問われるような問題に直面したとき、
公共の利益を無視して、自分たちの私利私欲に走るに違いない。
彼らには人間としての芯、哲学的思考が欠けるからである。

人間としての芯がない人間がいかに知識を学び、それを積み重ねようとしても
それは極めてもろい、砂上の楼閣である。

かくいう私も哲学的思考ができているわけではない。
まだまだ、人間としての芯が通っていないと自覚する者である。
しかし、まだ自らの無知を自覚している点で
そのような根本的問題に思いを馳せない人たちよりは
いくぶんかましであると思う。

私はまだまだ自分の人間としての芯が定まっていなく、
己が卑小なることを恥じる。
今、忙しいながらも岩波の哲学書を漁って読んでいる。

光陰矢のごとし。
早く急がねば。

2009年7月4日土曜日

ペンは剣より強し

技術と人間との結びつきが強くなる中、
明治以来の文系、理系という分け方は現代においては
甚だ非合理なものとなりつつあるが、
説明の便宜上、あえてその言葉で論じたい。

2008年四人の日本人がノーベル賞を受賞したことは記憶に新しい。
理系の分野では日本の経済力からしてまだまだ世界的に活躍している人は
少ないとは思うが、多くの日本人が言語の壁を乗り越え活躍している。

しかし、翻って日本の文系の活躍はどうであろうか。
従来の世界に対する見方を根本的に変えるといった人物は
文系分野においてはいないのではないだろうか。
海外の思想家を我々はよく耳にするが、
海外において有名な日本の思想家をほとんど耳にしない点からも
このことは明らかなことではないかと考える。

正義が未だ行われず、不平等なこの世界を変えるべく
日本人としての立場から
旧来の考えを払拭しようとするような気概をもった者はいないのか。
経済ばかり目立ち、理念がなく国際舞台において顔がみえないといわれるままで良いのか。
あげくの果てには日本に期待されるのは金の拠出だけという有様である。
我々、文系人は深く深く反省しなければならない。

このまま思想を欧米に預けたままで、我々はそれに追従するだけでいいのか!
グローバリゼーションの進展、経済危機で思想の揺らぎが生じている現在
まさに、我々がうってでるときではないか。
我々から積極的に情報発信していかなければならない。

自戒の念を込めて書いたのでついつい熱くなってしまった。
近日、英語でもブログを立ち上げるつもりである。

ブログの方針の確認

ついつい、忙しさにかまけ、ブログの更新を怠ってしまった。
更新しない間にも日々、様々なことを感じ、考えてきたが、
まだきちんと整理できていないものを公開していいものかと、ついつい筆をおいてしまった。
しかし、これでは本来の目的である日々の思考の変遷をみる
という目的が達成できない。

そういうことを考えている内に、
たとえ今書くことが後からみればまだまだ不足していても
良いではないかと考えた。
ブログを更新しながらも自己修養を怠らなければ、
まさに自己の成長という思考の変遷を後にみれるではないかと思ったのだ。

だから、これからは未だ確固とした思想にまでいたっていないことでも、
思いつけば書いていくという方針を採りたい。