明治、大正、そして昭和の第二次世界大戦前まで、
日本のエリートは知的好奇心に燃え、むさぼるように勉学に励んでいた。
そして、エリート集団が属した旧制高等学校では、文系理系を問わず、哲学が基礎教養とされ、
それを学んだ後に文系、理系の専門に進むことになっていた。
私はこれは至極当然のことであると思われる。
例えば私の学ぶ法律であるが、
法律を学んだところで、人間如何に生きるべきか、という根本の問題については何ら得るところはない。
法律はあくまである行為が違法か否かを教える行為規範であり、
もっと根本的な道徳的、倫理的な問題は法の範囲ではないからだ。
道徳観、倫理観の欠ける者が弁護士になればどうなるだろうか。
彼らは、法の抜け道を見つけ出し、法を悪用するに違いない。
これは法学の分野だけではない。経済の分野、物理の分野など全てにわたっていえることである。
知識だけあり、知恵のない者が重要な社会的地位につけば有害極まりない。
確かに、彼らとて普段は問題なく行動をするであろうが、
人間としての真価が問われるような問題に直面したとき、
公共の利益を無視して、自分たちの私利私欲に走るに違いない。
彼らには人間としての芯、哲学的思考が欠けるからである。
人間としての芯がない人間がいかに知識を学び、それを積み重ねようとしても
それは極めてもろい、砂上の楼閣である。
かくいう私も哲学的思考ができているわけではない。
まだまだ、人間としての芯が通っていないと自覚する者である。
しかし、まだ自らの無知を自覚している点で
そのような根本的問題に思いを馳せない人たちよりは
いくぶんかましであると思う。
私はまだまだ自分の人間としての芯が定まっていなく、
己が卑小なることを恥じる。
今、忙しいながらも岩波の哲学書を漁って読んでいる。
光陰矢のごとし。
早く急がねば。

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