2009年6月12日金曜日

私の死生観

人は生まれた瞬間から死にむかっている。
そして、誰しもその死が自分に訪れることをおそれるものである。
というわけで、今日は私の死生観について述べてみたい。

私は輪廻して再び生を受けるなど、
審判の日に永遠の命を受けるなど、
全く信じないし、信じようとも思わない。
宗教によって与えられた死生観を受け入れることは、
死と直面することをおそれるあまり、
死から目をそらしているように感じられるからだ。

まだ、次があるというそのような死生観では
現在の恐怖から逃れるにすぎず、
現在の生を輝かせるに至らない。
麻酔みたいなものだ。

誰が死のうと、社会はまるで何事もなかったかのように平然と動いていく。
死を恐れるのは、自分という存在が無に帰すると考えるからだと思う。
人間だれしも自分の生に意味がなかったのではないかと思うことに恐怖するのだ。

しかし、自分という存在が消えると何も残らないのだろうか。
私は否と答えたい。

私は祖母を中2の夏に交通事故によって亡くした。
だが、中学受験を終えた後、ディズニーランドへ連れて行ってくれたこと、
宮沢賢治が好きだと言えば、宮沢賢治展に連れて行ってくれて全集を買ってくれたこと
よく、まだあたたかい舎利(しゃり)で寿司をつくってくれたことなど、
ふと思い出すことがある。
そう、彼女は私の心の中で生きているのである。

家族を大事にすること、そして自分の周りにいる人たちも大事にすること
そうすることで、彼ら、彼女らの中に私が息づく。

また、皆の幸せのために奮闘し、社会的な功績を残す人
その人の名は永遠に記録され、まさに、永遠の命を得るのである。

世の中を自分が仮に存在しなかった世界より、少しでもよくすること。
そうすれば、私がこの地球に存在したという意味があるのではないだろうか。
そして、できれば、この日本という国に生まれたからには、
日本国、そしてその構成員たる日本人のため、自分の身を尽くし
後生に名を受け継がれるような人物になりたいと思う。

「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂」
吉田松陰・留魂録 (講談社学術文庫)抜粋

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