2009年11月29日日曜日

日本語が亡びるとき


 本書において、筆者は十分には述べていなかったと思われるが、英語の帝国主義とでもいえるような時代と雖も、まず前提とすべきは、我々日本語を母語とする者達は、日本語を用いる時に、最も繊細で奥深い思考活動ができるということである。
 それにも関わらず、筆者が返す返す言及するように、我々日本人は緻密な思考活動を可能にするような日本語教育について心を砕くことがあまりにも少なかった。それは、日本人がたった百年前の作品も読めなくなりつつあることに如実に顕れている。これは先人が労を惜しまず蓄積した英知に我々が真の意味で接触し、我が物とすることができなくなっていることを意味する。我々自身の手で、過去の遺産を棄ててきたにも等しいのである。
 そこで、筆者が主張するのは、まず知的思考の前提となる日本語能力を全ての日本人の内に育成すること、そして、英語を母語とするような人達と対等に、議論が出来る程度の英語能力を一部の日本人の内に徹底的に養成することである。
 私は筆者の意見に概ね賛成である。確かに反復が多く、海に出ては潮に何度も岸に押し返されるような気持ちになる時がない訳ではない。しかし、これは情報過多の時代に精読することが少なくなった我々を考慮して、何度も述べておられるのだと理解した。
 また、個々の点で(私の場合歴史認識)、異論が無いわけでもない。しかし、それを補って余りあるほどに、英語の世紀の中で考えねばならぬことを、専門家ではないが、日本語の運用者たる我々に切に訴えてくるものである。
 本題と関係なきところで、唾棄すべき書に非ず。
 我、将にこれを必読の書とせん。

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